古賀敦子さん/フルート/マグデブルグフィルハーモニー交響楽団ソリスト/ドイツ・マグデブルグ

古賀敦子さん/フルート/マグデブルグフィルハーモニー交響楽団ソリスト/ドイツ・マグデブルグ
桐朋女子高等学校音楽科卒業。パリ国立高等音楽院を満場一致の一等賞で卒業。同校トワジエム・シークル終了。ミュンヘン音楽大学国家演奏家コース終了。ブカレスト・ジュネスミュージカル国際コンクール、パリ・ルーテス国際コンクール、パリ・クリューネルコンクールで優勝、マリア・カナルス国際コンクール、カルタニセッタ国際デュオコンクール、ローマTIM国際コンクールで2位、その他トラパーニ国際コンクール等数々で受賞。フランス、ドイツ、イタリア、オーストリア、モロッコ、中央アメリカでリサイタルを行う。ユンゲドイツフィルハーモニー交響楽団、ホフ交響楽団、ワイマール国立歌劇場の首席と副首席を経る。2001年よりマグデブルグフィルハーモニー交響楽団のソリストをつとめ、ドイツ、フランスを主にテレビ、ラジオにも多数出演。マグデブルグフィルハーモニー交響楽団、ミッテルドイツ室内交響楽団、ヴィラムジカ・アンサンブル、パリCNSM管弦楽団、ブカレスト・ジュネスミュージカル交響楽団、九州交響楽団等と共演。2008年はソリストとしてマグデブルグフィルのメンバーとドイツの各地約15箇所で共演。ドイツ・ロトリンガー出版社から2008年最優秀演奏賞を贈呈される。
-初めに簡単な経歴を教えてください。

古賀  4歳でピアノを始めて、小学校高学年のとき、リコーダーをきっかけにフルートを始めました。桐朋学園の音楽科の高校に進み、卒業後、パリ国立高等音楽院に入学しました。そこで普通の音楽コース3年と大学院で2年勉強しました。その後、さらにドイツのケルン音楽大学に進み、在学中から、ユンゲ・ドイツフィルハーモニーやホフ交響楽団といったオーケストラと年間契約をして活動を始めました。現在はマグデブルグフィルハーモニー交響楽団に在籍しながら、室内楽とソロ活動に力を入れています。
-音楽を始めたきっかけは何ですか?

古賀  父の影響です。クラシック音楽がすごく好きで、いつもいろんなレコードをかけていたんです。それで子供の頃からクラシック音楽を聞くのがあたりまえの生活で、寝るときも子守唄の代わりに必ずクラシックのカセットがかかっていました。それから、母がピアノの先生をしていたのも大きいです。
-必然的にピアノを始める環境だったんですね。

古賀  ピアノは家の中で常に誰かが弾いてる環境でした。4歳でピアノを始めたっていうのは、母以外の先生にきちんとついたという意味です。その前の赤ちゃんの頃から、なんとなくピアノを触らせてくれてはいました。
-ピアノからリコーダー、フルートにいったきっかけは何だったんですか?

古賀  ピアノをやっているときに、すでに音楽家になりたいなとは思っていたんです。でも、特にピアニストになりたいとは思っていませんでした。小学校のときに、リコーダーを吹きますよね、それでリコーダーで「この曲を吹きたい吹きたい」と吹いていた曲がたまたまフルートの曲だったのです。それに気が付いたピアノの先生が、「あなた、フルートやってみたら」と、勧めてくれました。私は覚えていませんが、ピアノの先生の前でもリコーダーを吹いてみせたんだと思います。
-フルートを始めたのは何歳のときですか?

古賀  小学校の高学年だったので11歳くらいです。始めたといっても、その頃はちゃんと練習していたわけではなくって、趣味でやりたいと思っていたんです。親にも「私、趣味でやるんだからね」、「指だけちゃんとわかるようになって、音が出せるようになったらレッスンにはもう行かない」って言い張っていたんです。けれども、やっているうちにいつの間にかフルーティストになりたいと思っていました。
-4歳くらいから音楽家になりたいと思っていたのですか?

古賀  何歳頃だったのかは自分でも覚えていませんが、物心がついたら自分は音楽家になるんだと決めていました。テレビを見て指揮者が格好良く見えたら、指揮者がいいかなとか、作曲家がいいのかなとかいろいろ空想していました。何かを言う度に、母に、ピアノの先生ですから、「何をやるにしても、音楽家はピアノを弾けなきゃいけないから、ピアノはちゃんと練習しなさい」と言われていました。
-留学を考えたきっかけを教えてください。

古賀  桐朋学園に入った頃に、あるフルーティストが私のフルートを聴いて、勧めてくれたのがきっかけだったと思います。
-勧めてくれたのは先生ですか?

古賀  いえ。10年前くらいまでスイスで活躍なさっていて、最近日本に帰られて日本でもかなり活躍されている方ですが、たまたま父と知り合いで、家に遊びに来ていたんです。そのときに、私のフルートを聴いて、「君、桐朋の高校を出たら、パリ国立高等音楽院に行ったらいいよ」と言ってくれたんです。親もそれを聞いて、フルート雑誌のようなものを私に買ってくれました。その雑誌には、その頃にパリ国立高等音楽院でフルートを勉強している人たちの事が多く取り上げられていました。それを見て、高校を卒業したらパリ国立高等音楽院に行きたいな、という気持ちがだんだん高まってきたんです。それから、高校にいる頃、パリで成功したK氏というフルーティストがマイスタークラスをされて、それに刺激を受けたことも大きいです。
-その方のレッスンは実際に受講されましたか?

古賀  はい、受講しました。すごく気さくな方で、レッスン以外にも色々とアドバイスしていただきました。
-いろんな方が留学を勧めてくださったんですね。

古賀  桐朋のピアノ副科の師も盛んに留学を勧めてくれました。私のフルートの師はそんなに留学を勧めなかったんですけれども、日本に残る事で成功した方だったので、海外に出てもそのまま成功することが少ないと現実的に考えられたんだと思います。副科の先生は、ご自身がドイツで勉強されて成功された方で、まずピアノの演奏から、「あなた、絶対、外国に出たほうがいいタイプ」と、かなり押してくれました。その後、私のフルートのコンクールにも1次も2次も付いて来てくださって、「あなたの演奏は、絶対外国のほうが受けるから」と、またさらにお尻を押してくれました。留学用の本を買ってくれたり、本当に何かと世話していただきました。
-それで具体的に考えるようになったということですね

古賀  そうです。
-教わりたい先生もいらっしゃったんですか?

古賀  いえ。パリ国立高等音楽院というのは、フルーティストにとっては憧れの学校で、世界のトップにキラキラ光っているような存在だったんです。だから、最初はどの先生に付きたいというよりも「あの学校に行きたい」という思いが強かったです。歴代の一流フルーティスト達が、皆そこを出た方だったり、教授をやっていたりするので、とにかくフルーティストとしては、憧れの場ということですね。
-留学前、師事する先生を探したりはしなかったのですか?

古賀  しました。ある先生に、お弟子さんに現在パリ国立高等音楽院に留学している方がいる、ということを教えていただき、その方に手紙を書いて、学校の情報を教えていただきました。それによるとフルート教授は2人だけで、アラン・マリオン教授とミッシェル・デボスト教授だということで、両教授の講習会に2夏かけて通いました。それで、夏期講習を通してどちらの先生が自分に合っているのか試しました。デポスト教授のレッスンには最初から感激して、その場で「パリ国立高等音楽院に入学して、あなたに付きたい」ということをお伝えして受験しました。
-留学する前に先生を探すことはおすすめできることなんでしょうか?

古賀  それは必然だと思います。最初はマリオン教授の講習会に行ったのですが、レッスンがどうというわけではなくて、全然相性が合いませんでした。自分と相性が合う先生を選ぶというのは、とても大事なことだと思います。特に10代のうちに合わない先生に付いてしまうと、精神的にもかなり混乱するでしょう。ヨーロッパのメソードは大抵日本のとは大きく違うので、最初はしっかり根気よく基盤を掴ませてくれる師が望ましいです。
-10代からフランスに行って大変ではありませんでしたか?

古賀  アパートも自分で探さなきゃいけないし、練習をしていて、うるさいと追い出されたり……といったことは何度もありました。10回以上、引越しをしました。アパートがすぐに見つからない時もあり、友達の家に転がり込んで寝るだけ寝させてもらって、練習は学校でして……という状態のときもありました。でもまだ10代で、こんなもんだと思っていたし、志も高かったので、あんまり苦労とは思わなかったですね。
-ホームシックにはなりませんでしたか?

古賀  なりませんでした。最初はとにかくパリ国立高等音楽院の受験に必死でした。最初に入ったアパートは、屋根裏部屋でトイレ共同、お風呂もシャワーもなく、わざわざ近くのサン・ラザール駅の公衆シャワーを借りに行っていました。小さな台所で何とか髪だけ洗ったり。その頃はそんなもんだと思い込んでいましたが、今考えたら、あんな生活よくしていたなと思います。
-食事で困ることはありませんでしたか?

古賀  食べ物は、パリは何でもありますから。
-日本食は手に入るんですか?

古賀  まだ高校を出たばかりですから、日本食じゃないと嫌だとかそういうことはあまり考えたことがなかったです。それにパリはおいしいものが多く、食べ物でホームシックになる国ではないです。むしろドイツに来てからの方が、日本食食べたいな、とたまに思います。
-語学は事前に勉強されていったんですよね。

古賀  桐朋学園では、第2外国語でフランス語を取っていました。留学する直前に、もう少しちゃんと勉強したいと思って、日仏学院に通いました。高校を卒業してから留学する夏までの数ヶ月、週5回3時間ずつのコースを受けました。
-パリ国立高等音楽院の入試で、フランス語の証明書は必要になるんでしょうか?

古賀  当時は必要なかったですが、今はどうなんでしょう。(編集注:2009年受験から語学力の提出が必須となっています。)ドイツも当時は必要なかったけれど、今は必要らしいですよ。(編集注:(2008年11月現在)ドイツの国立音楽大学は語学力の証明の提出が必要な学校と必要でない学校があります。しかし、今後、全学校で必要となってくると予想されます。)。当時のパリ国立高等音楽院は完全に実技だけでした。今は話によると、聴音等の試験もあるらしいです。
-フランスからドイツへ行かれた経緯を教えてください。

古賀  パリでフランス音楽を勉強するのは、もう本当に街からも学ぶことがたくさんあり、最高でした。でも、フランスでドイツ音楽をやるときに、どうも軽いなぁ……という感覚が最後まで残っていて、一時だけドイツでドイツ音楽の勉強をしたいなと思ったんです。そのときに、たまたまアンドラーシュ・アドリヤン氏というドイツ系の先生が私達のパリのクラスに何回かレッスンに来ていて、その頃もう私は大学院を卒業しかけていたので、「これが終わったら、あなたの学校であなたの元で勉強できないでしょうか」と訊いてみたんです。アドリヤン氏は、当時ケルン国立音楽大学教授で、ケルンとパリは鉄道で4〜5時間なので、パリから通うつもりでいました。彼はフランス語がペラペラだったので、フランス語でドイツ物をちゃんと勉強できる有難さもありました。けれども、私が入学して間もなく、アドリヤン氏がミュンヘンの学校に移ることになって、ミュンヘンとなるとパリに住みながら通うということができなくなってしまったんです。
-なるほど。

古賀  しかも、師から何度も「あなたはフランスの音楽を演奏したら、ちゃんとフランス語がしゃべれる人がフランス音楽を吹いてるな、という感じがするんだけど、ドイツものを吹くと、やはり日本語とかフランス語のなまりがありながら吹いている感じがする」と言われてました。「ドイツ音楽をちゃんと勉強したいんだったら、ドイツ語もやらなきゃダメだ」と言うわけです。御自身、大変語学に長けている方で、何語でもできる方です。それで、結果的にはミュンヘンに移ることになりました。最初は、ドイツってパリに比べたら田舎っぽくて街に魅力がない、という印象でした。
-抵抗はありませんでしたか?

古賀  最初は抵抗があって、こんなところにずっと住みたくない、と思っていました。しかも、コンサートの機会がパリで定期的にあったので、いつかは絶対にパリに戻るんだ、と思っていました。ところが、初めから、盛んにドイツ人と室内楽で演奏旅行をしたり、ユンゲドイツフィルハーモニーという若い人用のオーケストラに入団したりと、ドイツ人にもまれる状況が沢山来たんです。ドイツ語も出来ないのに、「気に入った!また一緒にやろう!」と何度も声をかけてくれる方も多くて。ドイツ人っていうのは、フランス人よりもドイツ語ができない人に対して優しいんですよ。フランス人はフランス語ができないとバカにしますし、フランスが一番だという誇りがあるので、外国人にはちょっと冷たいところもあるような気がします。その点、ドイツ人というのは一生懸命こっちがしゃべろうとしていると、自分も一生懸命英語をしゃべってくれるし、ドイツ語も親切に教えてくれます。気が付いたら、私はここで頑張ろうと、ドイツにはまっていました。
-どういったところにドイツとフランスの違いを感じましたか?

古賀  まず風景が全然違います。フランスは戦争でやられていないので古い町並みもそのまま残っています。それから、空の色が世界中で一番きれいな国だと思います。イタリアも真っ青できれいなんですが、フランスは朝と昼と夜でどんどん色が変わっていくんです。そんな空の変化は、日本でも見たことがないですね。曇っている日でもセーヌ河の辺りは、「これがパリのエスプリっていうやつか」と実感できる何か特別な空気があって、メルヘンの国の中を歩いているようなごく澄んだきれいな空間があるんです。あれが何なのか、ちょっと説明できませんけど、やはり心を込めて街を作っていった人達の芸術性が生きているんでしょうね。特に空の色は、ある画家の方が「これはフランスブルーといって、フランスにだけある色なんだ」と言っていました。いろんな画家がフランスに住んだ意味がわかるくらい、とにかく景色が見る時間によって全然色合いが違って、それがいつも絵になるんですよ。それはドイツにはないものですね。だから、フランス音楽は、ものすごく色彩感豊かなんだと思います。
-色彩感、ですか。

古賀  デポスト氏のレッスンでフランス物を持っていった時、「フランス音楽っていうのは、色だよ。君もパリに住んでしばらくになるからわかるだろう。朝でも昼でも毎日色は全然違うだろう。あの色を音にしなさい」と言われた事があります。フランス音楽は音色が命だと実感しました。それからフレーズも街に通ずるものがあるんですよね。フランスの街を歩いていると、あんまり歩いているっていう感じがしなくて、フワフワ飛んでいるような印象があるんです。フランス音楽のフレーズっていうのも、あまり地に足が着かない感じで、ちょっとメランコリー、悲しげなんです。それで、フレーズも途切れなく続く感じがあり、それはフランスの街からきているんだなと思いました。
-フランスの街がそういう音楽生を生んだんですね。

古賀  印象派を生み出した音楽家のドビュッシーは、モネなどフランスの印象派の画家と交流があったんですよね。フランス印象派の音楽は絵画の感覚からきている要素が大きいです。ドイツ音楽は全く別で、ハーモニーの音楽なんです。ドイツの国境を越えたとたんに体重が重くなったような、一歩一歩しっかり歩いてしまう感覚が実際に自分の中にもあるんですよ。ドイツ音楽というのは、しっかり和声が構成されていて、フレーズの初めと終わりがはっきりしています。音楽的精神は続いていても、フレーズが途切れないなんてことはありえなく、テンポ感も重いです。そして音楽に含まれてるものは色彩感よりも、深い人間の精神です。とにかく演奏スタイルが全く違います。それから人間性も、ドイツ人は色んなことを深く考える民族です。フランス人っていうのはわりと昨日した話も忘れてしまう友達が多くって、その場その場を楽しく生きるという感じがしました。ドイツ人はそんなに考えなくてもいいんじゃないか、というくらいしっかりと考えて、一度、言い出したら頑固な方も多くて、とても真面目です。だからこそ、バッハやベートーベンなど、しっかり土台ができているからこそ、ドイツ音楽はクラシックでは一番重要な位置にありますよね。
-フランスで色彩感のある音楽を経験してからドイツへ行ってびっくりなさらなかったですか?

古賀  レッスンを受ける度に、「どうしてそんなにフレーズをつなげるんだ。切れ切れ」と言われて、自分ではそんなに切りたくなかったんですが、だんだんと和声感がわかってくるにつれて、意味がわかってきました。最初はドイツ人と一緒に室内楽をしていると、自分のテンポ感が速すぎて、気をつけないと前に飛び出してしまう感じがあったんです。
今でも、ドイツ人とフランス物を共演する時、テンポ感、フレーズ感では違和感あって苦労する事が多いです。しかし、ドイツ人の方はそのスタイルの違う私の演奏も快く受け入れてくれました。違うものでも受け入れる、器の大きさをドイツ人に感じました。
もちろん、感性の似てる演奏家とは国柄関係なくすぐ意気投合できます。
-フランスとドイツでクラシックを学ぶメリットとデメリットを教えてください。

古賀  パリ国立音楽院の教育は「ソリスト養成所」と言う感じで、レパートリーを増やす事、コンクールに派遣して賞を取らせる事が中心で、大学院に行くとパリや各地でリサイタルをどんどんさせて、オーケストラとも共演させて、演奏家としての度胸と器量を身に付けさせる所でした。ドイツでは、オーケストラの入団試験用のレッスンが中心で、それが難しい生徒には先生が教育学をやる事をさとす場面もあり、現実的な就職を目指す教育でした。
-フランスとドイツで学校の入試も違いますか。

古賀  パリ国立高等音楽院はもし先生が決まっていなくても入試に合格すれば入学できますが、ドイツのほうは最初から先生が決まってないと、入試の点数が一番くらいに良かったとしても、どの先生もこの子は取らないといってしまったら、入れないという話を聞いたことがあります。
-ドイツに留学したいときは、必ずレッスンを受けて顔見知りになっておく必要があるということですか?

古賀  はい。教授がこの子を取るという意思がはっきりしていれば、ある程度の合格点は必要ですが、各教授が取りたい生徒を取ることが多いようです。逆にパリ国立高等音楽院の方は、入学してからでも先生を変わることができるんです。
-実際に先生を変えることは難しいですか?

古賀  いえ、全然難しくないですよ。私も大学院に行ってからですが、いろんな先生のレッスンを受けました。
-それは日本でも難しい面もありますよね。

古賀  日本は難しいですね。フランスは先生があんまり自分の生徒に責任感がないとも言えますが、良く言えばオープンで、自分で勝手にいろんなところで勉強してくることに全く干渉してこないです。私もいいなと思った先生には他の先生でも積極的に付いたりしました。例えば、ヒンデミットの曲を勉強したいと思ったときに、ヒンデミットについて詳しいバイオリンの先生に見てもらったことがあります。その先生のクラスに顔を出して「この曲を一度、見ていただけませんか?」と言うと、「うん、いいよ。明日来なさい」と。そういう風に気楽にいろんな先生のいいところを学べるというところがあります。
-それはドイツでは難しいですか?

古賀  ドイツの方が一人の先生が一人の生徒にしっかり責任感を持って教えるので、日本ほどではないかもしれませんが、あまり印象良くないでしょうね。私の師も、私のコンサートに来て「自分が教えた通りに、吹いていなかったじゃないか」と言われたことがあります。フランスの先生はその人の好きなようにどうぞみたいな感じですね。それは、フランス人の特性であまり人に関心がないんだと思います。フランス人っていうのは、明るくしてればいいですが、「今、悩みがあって」などと言うと、逃げていくというか……、相談はちょっと気が重いよっていう雰囲気でしたね。
-ドイツはいかがですか?

古賀  ドイツの方は、今までそんなに親しくなかった人にいきなり「実は今、こんな悩みがある」と言っても、「自分でよければ、聞いてあげるよ」と、正直な心境を言った事に対してかえって向こうが心を開いてくるような感じがあります。じっくり向き合って友情を積み上げていくのがドイツです。師弟関係もそうでしょう。だから、いろんな先生にオープンで付きたい方はフランスに行った方が合うでしょうし、一人の先生にじっくり習いたい方はドイツに行った方が合うでしょう。その他に当たり前の事としてドイツ音楽はドイツで勉強したほうがいいし、フランス音楽はフランスで勉強したほうがいいと思います。
-フランス、ドイツで日本人が仕事をするにあたって有利な点、不利な点はありますか?

古賀  それはあります。オーケストラに入りたかったらドイツのほうがオーケストラの数は多いですし、ドイツのほうが有利と思います。フランスはパリの中でも、数えるほどしかオーケストラがないし、その中でもオーケストラで食べていけるのは2つぐらいですよね。
-なるほど。

古賀  ただ、今ドイツのオーケストラも経済難でどんどん潰れたり、合併していっている状況なので、席はどんどん減っています。ドイツ人の失業音楽家も増えてきているので、就職試験という意味では日本人はかなり不利です。私もよく経験したのですが、オーケストラの入団試験で、カーテン審査だとわりといい所まで通るんです。でも顔が見えたとたんに、「あぁ嫌われたなこれは……」という空気が漂ってきたりします。「オーケストラを一生懸命受けても受かりません」と師に言ったら、「君はやれるものは全部やっている、あとは整形手術しなさい」と冗談で言われました。差別といえば差別ですね。日本人でもそうでしょうね。もし日本人にもたくさん失業者がいる状況で、誰かを選ばなければいけないとしたら、違う国の人ではなく、やはり日本人優先にするでしょう。そういう意味では就職試験には不利です。けれども、日本人って本当に努力家の人が多いんですよね。例えばドイツ人だったら、お金を貰った分だけ仕事をするけどそれ以上はやらないよっていう精神の人が結構多いんです。でも日本人っていうのは、貰う報酬に関係なく、いい仕事をしたいと思うんです。例えば、1つコンサートがあったら、それがどんなに安いギャラであっても、いい演奏をしたいという精神で、最後まで細やかな仕上げをするという人が私の周りには多いです。日本人は、仕事をすることに生き甲斐を見出せる民族ですね。
-そうかもしれませんね。

古賀  それが報われるか報われないかに関わらず、とにかく自分がいい仕事をしたいという精神でやっていけるのは、ひょっとしたら世界で日本人くらいしかいないんじゃないかなという気がしています。そういう意味で、仕事を始めたら、周りにだんだんと支援者が増えていくと思います。
-ドイツ人は違いますか?

古賀  ドイツ人もかなり真面目ですが、皆努力家かと思ったら、報酬のある分だけはきちんとするけど、それ以外はやる必要はないと言う考えの人も多いです。フランス人は気分屋が多いですが、天才性とでもいいますか、とてもセンスが優れてて、その場の感覚や柔軟性で短期で成功させる人が多いです。日本人、それからロシア人は、どんなひどい状況でも、粘っていい仕事をする人が多いです。
-海外で活躍されている日本人の方はそういう方が多いと思うんですけど、ロシア人もそうなんですね。

古賀  でも、ロシア人はバックにあるものが違うと思うんです。ソビエトが崩壊したことで仕事がなくなり、ものすごく苦労をしている人たちがいるんです。一流のピアニストだったのに、ソ連崩壊後は掃除婦の仕事もなくなったみたいな方々が、もう一度ピアノの仕事を手に入れたりすると、苦労を知っているから一生懸命やるんでしょうね。日本人はそういう苦労がなくても、血の中にいい仕事がしたいという思いがあるようです。
-現在の交響楽団に入団されたきっかけを教えてください。

古賀  学生時代に年間契約でホフ交響楽団というところに入団したんですが、そのときに、ビザが学生ビザから労働ビザに変わったんです。労働ビザを手に入れるのは大変な事で、それを持続するにはオーケストラの契約が切れる前に正式な席を手に入れる事でした。それでいろんな入団試験を受けて、まずいくつかのオーケストラで年間契約をして繋ぎ、更に正式な席の入団試験をいくつか受け、たまたまマグデブルグフィルハーモニー交響楽団に受かりました。
-労働ビザにはどうやって替えたのですか?

古賀  ホフ交響楽団が、わりと外国人に慣れていたんです。「学生ビザを労働ビザに替えてくれ」と外人局に行ったら、「そんな事、できるわけがないだろう」と怒鳴られましたが、オーケストラ側が「この人はどうしても自分のところに必要だから」と一生懸命押してくれて、それで結局は、折れて替えてくれたんです。
-すごいですね、オーケストラの力は!

古賀  それは運もありますね。替えてくれなくて、仕方なく日本に帰ったという知り合いもいます。労働ビザで難しいことになったことは何回かありましたけど、私の場合は、その都度、指揮者がすごくいい手紙を書いてくれたり、たまたまそこの外人局の方にいい方がいらっしゃったりして、ラッキーだったと思います。
-今の交響楽団に入るまでに何回くらいオーディションは受けられましたか?

古賀  数えていなかったですけれども、受けられるものは全部受けました。そもそも「受けてもいい」という招待状が外人にはなかなか来にくいんです。
-招待状がなければ受けられないんでしょうか?

古賀  受けられません。だから毎月ある雑誌出る「どこのオーケストラの席が空いている」という情報を見て、そのオーケストラ宛に自分の経歴と一緒に手紙を書くんです。よく日本人の学生は「招待状が来ない」とぼやいてました。私はわりと日本人としては来ていたほうでした。マグデブルグに入ってからも、さらに上を目指して何回か受けていて、例えばベルリン国立歌劇場なんか何回か本選までいって、君を取ろうかな、みたいになったことがあったので、何回も粘りましたけど最後の最後でやはり取ってもらえないです。どんどん厳しくなっています。まず、アジア人であることが不利なのと、できれば男性を取りたいんです。ドイツは、女性は子供が生まれたら3年間休暇を取ってもいいんです、そのあとに2人目が生まれて、プラスで6年休んでいたという人もいます。
-そういった意味でも男性のほうが……となってしまうんですね。

古賀  男性も一応休暇は取れるんですが、大抵3ヶ月以内に戻ってきますからね。
-入団試験はカーテン試験ですか?

古賀  カーテンはあったりなかったりします。カーテンは、大抵そのオーケストラの中の知り合いが受けていたりして、フェアにする為につけるようです。同じオーケストラでも、今回はあったけど前回はなかったという事がありました。
-まちまちなんですね。

古賀  まちまちです。日本人はカーテンがあるほうが有利だと私は思っています。でも、最後までカーテンがあるということはほとんどありません。
-試験というのは1次試験2次試験というように進んで行くんですか?

古賀  たいてい1次、2次、本選と進みます。その時々です。本選がものすごく長びいて、5次、6次、7次くらいまでなったこともあります。最後にオーケストラが決め兼ねると、舞台に2人か3人だけ呼び出され、交代で曲を順々に、永遠に吹かされる、何てこともしばしばありました。最後のほうはだんだん意識がなくなってくるというか、実力も必要ですが、根気の勝負になってしまいます。
-演奏活動はどういったとこでされているんですか?

古賀  マグデブルグ交響楽団は、ほとんどマグデブルグでの演奏が中心で、極端に演奏旅行は少ないオーケストラです。私が入団してからの演奏旅行は日本、イタリア、あとはドイツ内のドレスデン、ベルリン、バンベルグなどです。それはオーケストラ以外に自分の演奏活動をやってる私のような演奏家にとっては有難い事です。オーケストラの演奏旅行が多ければ、移動ばかりでオーケストラ以外の活動は難しいでしょうね。自分の演奏活動は、大抵ドイツの各地です。たまにまとまった休みを取って日本、フランス等に行っています。
-ドイツの楽団は都市で演奏活動することが多いんですか?

古賀  それはオーケストラによって全然違います。例えばホフ交響楽団は、大きなツアーはあまりありませんでしたが、ホフという街を中心にオーケストラのない小さな街を回る演奏活動もかなりありました。
-ずっとこの交響楽団でやっていく予定ですか?

古賀  最近は室内楽の仕事が増えてきて、またソロ活動もさせていただいていて、小さなオーケストラと協演させていただく機会も増えてきていますので、他のオーケストラに移る努力よりもそれらの演奏会に力を注ぎたいと思っています。
-今後の音楽的な夢をお聞かせください。

古賀  私にとって一番うれしいのは、いろんな国の優秀な演奏家と室内楽をやることによって、言葉では表せない喜びやすばらしい感性に触れさせてもらっているところです。それは一緒に室内楽をやる仲間もそうですし、指揮者や作曲家でも同じです。通じる感性や、より優れた芸術家に触れると、ものすごく刺激を受けるので、今後も優秀な演奏家の方々といい出会いをしていきたいなと思います。できれば室内楽とソロだけで食べていけたら、というのが夢です。それから、こちらでは一流だけれども、日本では知られてないという演奏仲間を来日させてあげたいなと思います。
-リサイタルを開くんですか?

古賀  リサイタルの相手のピアニストが初来日で、その後熱狂的な日本好きになってくれた方もあります。四重奏、7人程のアンサンブルなど、色んな編成で来日させて頂きましたが、共演者は“来日”となると特にやる気が出る様子です。ヨーロッパの演奏家にとって、来日すると言う事はとても大きなものになっているようです。
-日本での反応はどうですか?

古賀  有名な演奏家じゃなくても、いいものであれば、お客さんはとても喜んでくださるんです。その熱気に支えられ、演奏会がヨーロッパで以上に盛り上がる事も多かったです。私が普段共演してる方々、日本ではまだ無名でも、素晴らしい芸術家たちなので、このフレッシュな演奏にこれからも触れていただきたいなと思います。
-クラシック音楽とは何ですか?

古賀  人間に与えられた一番ピュアで、すばらしいプレゼントだと思っています。音楽は、多分、一番直接人間の魂に届くものですから。本当にいい集中力で演奏できてる時、自分が演奏してるのではない、天から降りてきてる音楽を自分はただアンテナになって伝えてる、と言う状態になることがあります。それが私にとって一番理想の状態なんですが、それは、ちょっとでも自分に不純な要素があると駄目なんです。恐れとか、上手くやってやろうとかね。音楽は自分の魂の鏡のようなものでもあります。
-海外留学を考えている人にアドバイスをお願いします。

古賀  多分海外で活躍するのに一番大事なことっていうのは、音楽が好きっていうのはもちろん最低条件なんですが、それプラス、その国の生活やその国の人達も好きになれるかどうかじゃないかなと思うんです。だからもし、長く留学してても何か苦しいのでしたら、勉強だけして、少し国を替えてみるとか、日本のほうが合うんだったら日本に帰ったほうがいいと思います。その人その人で相性の合う国っていうのが全然違うと思うんです。自分が変な無理をしていないか、自分の心の要求に素直に従いながら見極めていくと、無理のない成功につながるんじゃないかなと思います。苦労があっても、心から「楽しい」と思える場所で勉強、活躍して欲しいと思います。
-なるほど。今日は貴重なお話をありがとうございました。

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古賀敦子さんの最新情報は下記ページからご覧になれます。
http://www.atsukokoga.de/
<古賀敦子、ゲオルギー ロマコフ2019年夏のコンサートツアー>
古賀敦子(フルート)、ゲオルギーロマコフ(チェロ)、ラドスラフクレック(ピアノ)
https://flutist1.lima-city.de/html/2019_summer.html
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